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第一章 幸せな日々 * 第二話「捕らわれの姫君」(1)


 『抜け道』を通って、倉庫区画を出たルマは凍てつきそうな寒さに我が身を抱いた。
 余り雪は降らずとも、池や湖に薄く氷が張る位には、王都フィラデルの冬の朝は厳しい冬の寒さに満たされている。故に、今のルマのように上着も羽織らずに外に出ている者はまずいない。深く被っている耳を覆うたれのついた毛の帽子のおかげで、顔の辺りだけが妙に暖かった。
 弱弱しくも、しかし鋭さを孕んだ冷風がルマの体から熱を奪っていくが、出かけるのを止める選択肢を今のルマは持っていなかった。
(今は我慢すればいい。途中で調達する場所なんかいくらでもあるんだから)
 人気がないのを確かめると、息を吐いて手を温める。しかし温もりも白い息も冷たい風があっさりとさらってしまって、気休め程度にすらならない。
「こうやっているのも……無駄なのかも知れないけどね」
 自嘲めいたつぶやきも、また空しく宙をさ迷うのみ。
 再び人気がないのを確かめると、より深く帽子を被り駆け出した。よりいっそう、勢い良く冷たい空気が体中にぶつかって来る。
 しかしこの場所――「月の宮」と称される「エルフェリア宮殿」から抜け出したいと思っているルマにとってはたいした障害ではなかった。
 とにかく早く「外」へ行きたかった。


*      *      *


 侍女服のスカートを翻らせながら、王女付きの侍女、レイアーニ=レイノアは宮殿内を駆けていた。
 淑女が全力疾走するなどはしたない、と言われることだろう。
 多少気は強い彼女であるが、子爵家の令嬢とだけあって他の女中たちの模範として申し分ないほどの礼儀作法や、所作は十二分に備えている。
 しかし今の彼女に体裁を整える心の余裕はない。
 ただ一心に、姿を消してしまった王女の事を思っていた。
 王女が忽然と姿を消す事自体はなかった訳ではない。むしろ近しい者達にとっては日常茶飯事でもある。皆、守護者として王女の身を案じてはいるものの、いつも無事に王女は戻ってくるのできっと今回も難なく戻ってくるのだろう、と深刻には受け止めていない。
 王の従者であるウォールは責任の重さからなのか、それともいつもとはどこか違うレイアーニの様子を怪訝に思ったのか、ルマを探し出して欲しいとの願いを受け入れてはくれた。
 今は新年祭典の準備期間中で責任官の一人である自分は迂闊に動けないが、話は通しておくから安心しろ、と。
 ウォールの立場を汲み取ったレイアーニは、納得の意を返したものの内心は穏やかではなかった。
(貴方は、儀式の成功とルマ様のどちらが大切なのですか!)
 叫びたい気持ちを必死で押さえ込み、レイアーニはウォールの元を去った。
 両天秤にしていい質問ではないのは勿論のことだが、今のこの切羽詰った気持は他者には理解できはしないだろう。それを吐き出したところで、余計に混乱を招くだけだ。
 きまぐれで、姿を消すルマ。だが侍女にはそれとなく外出する気配はいつも匂わせていた。
 それは時にはお茶を頼むときの申し訳なさそうな表情とか、時には終わらせている課題の帳面の山を目立つところにおいていたりとか……直接言葉で主張されることはないにせよ、端々から発信される「いってきます」の合図。
 たまに「お気をつけて」とレイアーニが耳打ちすると、戸惑った表情を見せつつも、ルマは軽く微笑みを返す。
 心から通じ合う、とまではいかなくとも、ルマからすればレイアーニは信頼をおいている合図であったし、レイアーニからすれば少なくとも他の臣下よりは心を許して貰えているようだ、という安心感があった。
 だからこそ、全く匂わせることもなく、本当に忽然と姿を消した事にレイアーニは血の気が引く思いすらした。
 「自分はルマに信頼されている」それがそもそも大きな勘違いという可能性だってある。いつもちゃんと戻ってくるのだから今日だって大丈夫かも知れない、少しすれば従者の命令で捜索の手も入るだろう。
 だが、レイアーニは漠然と思っていた。嫌な予感がする、と。
 理由など解らない。だが胸騒ぎが治まってくれない。
(兵なんて待っていられない。その前に私が見つけ出して差し上げないと)
 強く思い、レイアーニは「秘密の抜け道」へ向かう足を心なしか早くした。
 回廊に吹き込む風が体を容赦なく冷やしていたが、レイアーニは気にすることなく進んでいく。
 しかし強い気持ちも、体力の限界には追いつけなかったのだろう。広い宮殿内の移動は体力を容赦なく奪い、やがて疲労は足をもつれさせる。気づいた時には体が傾いでいた。
 体を支える余力すらなく、後は床に叩きつけられるだけ。……しかし来るはずの衝撃をレイアーニが覚える事はなかった。かたくつむった目を開いた先にに見えたのは、叩きつけられるはずだった床。しかもかなり下に。
「……えっ……?」
 自分を支える者が何もないと言うのに、彼女は確かに宙に存在していた。
 せいていた気持が嘘であったかのようにレイアーニは頭が真っ白になっていくのを確かに感じていた。
(ええと……これって……)
 なんとか自分の置かれている現実を整理しようとするレイアーニの耳に、
「ごめんなさーいっ! もうちょっと我慢してー!」
 悲鳴のようにも聞こえる、そんな振り絞った声が遠くから届いた。


*      *      *


「ほんっとーに、ごめんなさい!」
 世に「魔法」というものが存在しているのは知っていたが、いざ体験してみたら凄い、という次元ではなかった。
 衝撃から抜け切れていないレイアーニはどこか遠くに相手の声を感じていた。飛び上がったのではない、文字通り宙を飛んでしまったのである。
「おーい。お姉さん? 大丈夫?」
 どこか間延びした声と、軽く肩を揺さぶられる感覚でようやく宙をさ迷っていた視点が定まってくる。最初に認識したのは群青色の髪をくしゃくしゃに乱した、釣り目の青年だった。目が合うや否や、いたずらっぽい笑みが返ってくる。
「あー、よかったよかった。悪かったな、あのおっちょこちょいのバカ娘が迷惑かけ……あでっ!」
「黙りなさいよ、このバカ」
 目の前の光景に再び思考が追いつかないレイアーニだったが、もう一人の人間……青年の横っ面をひっぱたいた少女の存在は確認できた。
 紅潮させて怒りを露にしているその表情よりも、目につくのは立てば腰くらいまでありそうな長い黒髪。そんな彼女が、青年と睨みあっている。
(助けてくれたのはありがたいけど……喧嘩はやめてくれないかな……)
 急いでいるけど、このままこの場を去るのもどうにも後味が悪い気がする。
 何しろ、この少女のお陰で擦り傷一つ作らないで済んだのである。ちょっと精神的に衝撃は受けたとは言え。そんな恩人にお礼の一つも言わないで去るのは、不敬罪にすら値する。……しかし、お礼の一つも言わせない空気がなぜか目の前にはあった。
 そして空気よりももっと高い壁がある事に、レイアーニは気づいていた。
 青年は首飾りとして、少女は水色のマントを留める形で、それぞれ守護者のメダルを身に着けている。守護者のメダル自体はレイアーニも持っているし、今も胸元にブローチにしてつけているが、彼らのものに較べれば一回り……否、ふた回りは小さい。そしてそれ以上に問題なのは色だ。
 見えているのは金茶と翡翠のメダル。即ち、騎士と魔法使い。
 騎士と魔法使いといえば、守護者達の中でも双璧をなし、もっとも選抜も厳しく他の守護者たちとは一線を画すエリート集団。それは彼らが武力ないし魔力をもって、王族並びに宮殿を災厄から本当の意味で「守護」する役割を担っているに他ならない。
 ゆえに彼らは守護者たちの中では相当敬われるべき存在であり、王女付きとは言え宮殿内での権限などない侍女風情が、おいそれと彼らの発言に口を挟むことなど許される事ではない。
(……はず……なんだけど)
 困惑するレイアーニのことなど目もくれず、二人はすっくと立ち上がって相変わらず睨みあいを続けている。レイアーニは腰が抜けた状態のまま、その光景を見ている他ない。 「てめぇ、エモノは正しく使え、このドジ魔法使い!」
「あんたが、保護者ぶるから黙らせたまでよ」
 エモノってなんだろう? とレイアーニが顔を動かすと、少女の持っている杖が目に入る。魔法の知識はさっぱりだが杖が魔法使いにとって必要不可欠なものだというのは知っている。正しく使え、という言葉からどうやらこの杖で殴ったようだ。
(平手に見えたけど……いや、それよりもそれは……痛いでしょ……)
 冬なのに冷や汗のでそうな展開。当の本人たちは例によってレイアーニは眼中に入れていないようだ。
(黙っていっちゃってもいいような気がしてきたな……)
 だが、思った以上に浮遊の衝撃から抜け切れていないのか、うまく力が入らなくて立ち上がれない。全力疾走した疲労も重なっているのかも知れないが。
「というかあんたもね! いい加減何も感じさせない能天気騎士には言われたくないわよーっだ!」
「何だとこら、そもそもてめぇがドジやらかしたのが悪いってのに何自分のしたこと棚に上げた挙句、逆ギレしてんだよ。訳わかんねぇ」
 体動かないのはしょうがないと割り切るとしても、黙って諍い見続けている訳にはいかない。レイアーニはぐっと、口を引き結ぶ。
 体はうまく動かない、でも急いでいる、そして。焦点を言い争いを続けている二人に向ける。その眼差しは真剣そのものだった。
「言い方がムカつくって言って」
「……申し訳ありませんっ!」
 割って入るかのようなレイアーニの叫びにようやく我に返る二人。
 気まずい沈黙が(風の音は響いてくるが)ほんのちょっとあった後、口火を切ったのは青年の方だった。ばつが悪そうに、頭を掻いている。
「あー……わりぃな。こいつのドジっぷりの自覚なしについ、な」
「な……自覚くらいは……」
 反論しかけて慌てて口を閉じる少女。眉根を寄せて無言の反撃(多分)を青年に送った後、少女の手がレイアーニに向かって差し伸べられる。
「本当にびっくりさせてごめんなさい。転んだら痛いだろうなーと思って、ついやっちゃったんです。加減とかうまくできなくて、ほんとすみませんっ!」
 心から申し訳なさそうに、頭を下げる少女の姿。
 レイアーニからは目の前で口げんかを始められた事への怒りは消え去っていた。手を取ると、少女が顔をあげる。レイアーニは思わず息を呑んだ。
 取り立てて美少女、という訳でもないが均整の取れている顔立ち、しかし何よりも目を引くのは瞳だった。赤みがかった色を持つ者はいるが、ここまで見事に赤が強いのは珍しい。否、強いというよりはほぼ原色に近い、真紅。
「あの、やっぱりどこか……おかしい、ですか?」
 おそるおそる聞いてくる少女に、慌てて体裁を整えるレイアーニ。
「い、いいえ。驚きましたけど、おかげで怪我もありませんでしたからっ」
「良かったぁ」
 ぱっと花が開くような笑顔に、レイアーニも思わず表情がほころぶ。
 素直な子だなぁ。思いながら、ゆっくりと少女の手を借りて立ち上がる。目の前に彼女たちしかいないのだから、この二人の手を借りるしかない。そう思って口論を断ち切ったのだったが、頼む前に手を差し伸べられてどうにも申し訳ない気分になるレイアーニであった。
 無論、助けた相手を他所に口論を始める方が一般的には非常識なのだが。そこは今の気分の問題だ
「ありがとうございます。もう大丈夫で……」
 支えて貰った手を離した途端、足元がふらつき、慌てて壁に手をついた。
「大丈夫、じゃねえみたいだな」
「申し訳ありません。……急いで走って来たので……ちょっと休めば平気だと思います」
「休めばって……ここ外の空気駄々漏れだから体冷えちゃいますよ。とりあえず中入らないと」
 それは至極真っ当な意見だった。ここにずっといては凍りつくような寒さにやられるだけ。しかしレイアーニには、中に入って体を温めるまでの時間はない。助けて貰った手前、思うのも失礼な話だが、すでにいくらか時間は無駄にしている。走れないが、ゆっくりと歩くくらいなら出来るだろう。中に入って戻るよりかは早い。
「多分ゆっくりなら歩けますし、元より急いでいたものですから。大事な用なんです」
 そう言えば、解って貰えるだろう。そう思ったレイアーニの耳に飛び込んできたのは思いもよらない言葉だった。
「じゃあ、ご一緒します! 私もコイツも今日休みで暇ですから」
「……えっ」
 目をキラキラさせている少女と、目を瞬かせているレイアーニ、そして目を瞠る青年。
「いえ、そんな今日始めてお会いした方たちにそんな……お名前も存じませんのに」
「あ、名前ね。私はセレナ=ノヴァっていいます。こっちの目つき悪いのはアーサー=レナード」
 にこにこ笑いながら、少女セレナはとなりの青年を指差す。
「って軽々しく名乗るな! それから人の名前間違えんな! リカードだ。リカード!」
 困惑しっぱなしのレイアーニを他所に、すっかり乗り気のセレナとは正反対に、アーサー=レナード……もといアーサー=リカードは不満そうな表情を見せている。
「あのな……お前この人の都合とか、だな」
 眉根を寄せながら、首を横に振るアーサー。レイアーニの意図を汲んでくれているのか、それとも単に深入りするな、という忠告なのか。
 普通に考えれば後者だろう。レイアーニもそれを望んでいた。ここで「秘密の抜け道」の事を知られてしまう訳にはいかないのだ。
「うーん、でも心配だし……」
 困ったような表情をされて、良心が痛むレイアーニ。
 色々考えを巡らせつつ、この青年がどうにかしてくれないだろうか、と他力本願になっていたレイアーニの心の中に別の「ある考え」がふと浮かんだのはその時だった。
「あの……ではお願いを聞いて頂いてもよろしいでしょうか」
 レイアーニの言葉に、セレナは嬉しそうに頷き、アーサーは深いため息を吐く。
 ためらいがちに、しかし大切な王女の為に、意を決してレイアーニは言葉を紡ぎ始めた。