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第一章 幸せな日々 * 第一話「それぞれの憂鬱」(7)


 ルマは顔を隠しながら必至で涙を止めようと努力した。
 部屋に着くまでの間に止めることには成功したものの、赤くなった目を戻すには時間が足りず、お茶とお菓子を用意して待っていたレイアーニはそれを見逃してはくれなかった。
「ルマ様?! どうなされたのですか?」
 心配そうに覗き込んでくるレイアーニ。いつも自分の事を考えてくれるやさしい侍女。そのはずなのに、何故かルマは心に痛みを感じていた。
 油断すれば、息が止まってしまうのではないか、と思うくらいに胸が苦しい。
 そしてそれはきっと走ってきたからだけではない、とルマは漠然と感じていた。
「途中で砂ぼこりが目に入っちゃって。それでこすりすぎちゃっただけ。心配しないで。でも痒さが残って億劫だったからもう帰って来ちゃった」
 うまくごまかせたのか、あるいは気付いたけれど深く聞く様子ではない、と判断してくれているのか。とにかくもレイアーニは、ルマの言葉に首を傾げつつも、「そうでしたか」と短く答えるのみだった。
 ただの侍女と王女以上の関係ながらも、一定の領域以上に踏み込んでくることはしない。それが彼女が侍女になってから二年の間に確立してきた距離だ。それ以上遠ざけることもなければ、近づくこともしない。
 多少の不可解な憂鬱さを感じることはたまにあったが、良好な関係を築いていけている、とルマは信じて疑うことすらなかった。
 なのに何故だろう。いつも通りに言葉を交わしているはずなのに、言葉を発すれば発するほど侍女が遠くなっていくような気がする。
 最早、制御不能な曖昧な感情。
(……駄目だ)
 深入りはせずとも、何かは言いたげなまっすぐなレイアーニの瞳に、ルマの胸の鼓動が大きく揺れる。
(駄目だ、駄目だ……!)
 呪文のように、ルマは否定の言葉を繰り返し、自らに言い聞かせる。
「ごめん、レイアーニ。急に走っちゃったせいで、ちょっと気分が良くないの」
 気分が良くないのは嘘ではない。だが特に吐き気があるとか、そういった異常はない。異常なのは胸の鼓動の早さだけだ。
 しかし今度はごまかしが通用したのか、ルマの様子が変だったのは具合が悪かったせいと認識しただろうレイアーニは血相を変える。
「も、申し訳ありません。私何も気付きませんで……!」
 ずきり、と良心が痛む。嘘なのだから気付きようがあるはずもない。だが心を落ち着かせるためには、一人になるためにルマはこう言う他に何も思いつかなかった。
 でも、ごまかすために嘘をつくのも初めてではないのに、今はルマの胸中は後ろめたい気持ちで満たされていた。
「どうしようもないほど苦しい訳じゃないくらいちょっとしたものだから気にしないで。貴女がお医者さんだったら怒られるかも知れないけど」
 冗談めかしてみせるが、心はいっぱいいっぱいだ。
 まだ申し訳なさそうにしているレイアーニを気にしつつ、ルマは言葉を続ける。
「ちょっと休んだら良くなると思うから、心配しないで。あと、誰にも言わなくてもいいからね。大ごとにされたらちょっと困っちゃうから」
 ルマが軽く微笑んで見せると、解りました、とレイアーニの微笑みが返った。お茶とお菓子の乗ったトレイに手をかけたレイアーニを、ルマは呼び止める。
「せっかくもってきてくれたんだもの。起きたら貰うわ」
「そうですか。でも冷めたお茶だと体に障りますから、これは私が頂きますね。起きたときに改めてお淹れします。それなら勿体なくないでしょう?」
 言うと、レイアーニはポットだけを片手に部屋を後にする。
 足音が聞こえなくなるのを確認してから、何かに追われているかのような勢いでルマはベッドに潜り込んだ。
 直後に外出着のままだったことに気付いたが、もう一度出て着替える気は起きず、靴だけを外に放り出してより深く寝床に潜り込む。
(とにかく今は一旦体を休める事を考えよう……)
 目を閉じる。眠ったからといって、乱れた心が戻るとは思っていない。だが八方塞りでこれ異常に心が絡みまくってしまうよりは一呼吸入れたほうが賢明だ。そう、一呼吸入れるだけ。自らに課した「決意」から逃げる訳では決してない。
 ルマは夢の世界に入っていく。やがれ伝わってきた温もりに誘われながら。
 ――心は、冷やさなければならないけれども。


*      *      *


「王女様と秘密の抜け道……ねえ」
 ほぼ全ての流れを説明した後、相変わらず寝転がりながら、首をひねるアーサー。
「で、どうしたんだ? お前は」
 予想された問いに、しかしうまい言葉が見つからないエルラド。察したのか、アーサーが「解った、解った」と呟きながら、重い空気を打ち消さんとばかりにバネを響かせ、上体を起こす。
「どうせお前の事だから、抜け道の事や、王女様のことを上に言うべきか、そんな事を悩んでるんじゃないんだろ?」
 全く思っていなかった訳では勿論ない。騎士の本分として、王族の御身を護るためには、考えなければならないことなのだから。
 だが今のエルラドにとっては思考の片隅でしか意識していないのが現実であり、察する親友はやはり勘が鋭い。
「……ああ。なあ、アーサー」
 確かに告げ口しようか、などと悩んでいた訳ではない。むしろあのことは胸に秘めておこうと思っている程だ。だがそれは「人として」の判断であって、「騎士として」の心は完全に割り切ってはいない。
 だが、それ以上に心に引っかかっている事がある。何故か、と問われれば答えを提示できない、そんな不可解な心のつかえだ。
「伸ばしかけた手を、直前で引っ込められてしまったんだ。あと、少しだったのに」
 エルラドの呟きに、アーサーは視線をまっすぐ向けてくるのみだ。
「あと……最初は凄い心配してくれていた風だったのに、急に背をむけられて無言で歩いていってしまったり……ああ、何て言ったらいいんだ」
 その場限りのことと忘れてしまえばよいのだろう。だが、妙に負の感情に対して過敏に反応してしまう傾向があるエルラドにとっては無理な話だった。
 不注意で迷い込まなかったら、などとエルラドはもう感じてはいない。
「何か……わざと距離を置かれた気がしてならなかったんだ」
 ほんの少しの間だけ、行動を友にした王女の事が、まだエルラドの頭の中に残っている。 
 神妙な面持ちのエルラドに、アーサーは至極現実的な言葉を投げた。
「お前がどうにかしなければならない事なのか? それは」
「……ないな。それは解っているんだ。どうにもなることじゃないって」
 エルラドが親友から目を逸らす。同時に一際大きくギシリ、とバネのしなる音が耳に届く。気づけば真顔のアーサーの姿がエルラドの真横にあった。
 エルラドが確認するや否や、その表情が険しくなる。
「じゃあ何だ? どうにかなりそうなことだったら手助けしてたとか言うんじゃないだろうな、お前。そもそもどうにかなるならないとか言う次元の話じゃないってわかってるか?」
 まくしたてる親友に気圧されながらも、ああ、と落ち着かせた声で肯定の意を返すエルラド。
 本当に解っているのか、と言わんばかりの表情をしているアーサーに思わずエルラドも苦笑してしまう。
「解ってるよ。私たちは飽くまで王族の安全を守るための存在だ。それ以上もそれ以下もない」
 無論個人的に内情に踏み込むことなど論外。十分に解っていること。理屈としては。だが、何かを感じ、動き出してしまう心を制御はできない。そんな正に、心と現実の狭間。
「いずれにせよ、どうにもならないってわかっているはずなんだけどな」
「だからそもそも迷う事がおかしいんだっての! 仮に王女サマが助けを求めているとしても、直属の方々が解決することだろうがよ。お前はお前の解決すべきことに全力注いでいりゃそれでいいんだよ。 次いつお会いできるとか解らない天上の方と、しょっちゅう顔あわせなきゃならない目の前の部下だったらどっちとるかなんて明白じゃねえか!」
 激しく言葉をぶつけるアーサー。エルラドは困った表情を見せながらも、まっすぐに親友を見る。
「……ああ、ありがとう」
 苦笑して見せると、やれやれとアーサーが頭をかく。
「今更ながら突っ込むけど……お前お人よしの方向性が本当に激しく間違ってるぞ。入団試験の時だって」
「ちょ、ちょっとまってくれよ。いま、それを引き合いに出すかなあ……」
 過去の「失態」を持ち出され、困った表情を見せるエルラド。
 エルフェリアでは毎年春先に騎士団の試験が行われる。二人が受けたのは三年前の話なのだが、大事な試験に二人はよりにもよって遅刻してしまったのである。通常ならばその場で門前払いのところを、団長と彼らの師匠(団長とは旧知の仲、であるらしい)の口利き、そして水準以上の実力をもって辛くも入団を許されたのである。
「いや、今日は敢えて言わせろ。お前は妙に困った人間を呼び寄せるし、迷いなく助けようとする」
 入団後もしばらく物議をかもし出した遅刻の理由が「飼い猫に逃げられて路地裏で泣いている女の子を放っておけなかった」というのだから、あきられるのも当然だ。
「目の前で困っている人間を見ていられないってのは良いことだよ。俺はお前の長所だと思ってる。だけどそれでお前自身が損したら元も子もないじゃねえか。昔っからいい飽きてきたけど、本当に今日は声を大にして本音言うぞ」
 受け入れるがままのエルラドに、アーサーは静かに、しかし力を込めて告げた。
「いくらなんでも相手が悪すぎる」


*      *      *


 迷子とか、財布を川に落とした女性とか……とにかくも困っている人間をどうにも放っておけない。それは人としては、賞賛に値するといっていいだろう。
 だが騎士として正しいか、と問われれば話は違ってくる。騎士は王家と宮殿を護りし者。要請によっては市街の見回りに赴くこともあるが、目的は飽くまで「王と宮殿」のある国の治安を守ることだ。迷子とか落し物といった「日常の困りごと」には相応の役目を担う組織が別にある。せいぜい騎士が介入できるのはその者たちのところまで安全に送り届けるくらいまで。そうしなければ騎士として仕事に影響するだけではなく、他の組織の仕事まで奪いかねないからだ。
 親友のいなくなった自室の中で一人、ベッドに横になりながらエルラドは嘆息を繰り返していた。
「解っている……か」
 幾度となく親友に放った言い訳の言葉を呟いてみる。
 ややあって、自嘲めいた乾いた笑いが口を出た。
――お前、お人よしの方向性が間違ってるぞ。
 言われた瞬間、自分は本当に良き、唯一無二の友に恵まれていると思った。
 いつだって彼は必要な言葉を、時に突き刺さることすら投げてくれる。争いを避けたいがために、どうしようもないことではない限り、主張を回避してしまいがちな自分とは違う。
 理屈では解っているのだ。目の前に迷子がいたとするならば、しかるべき人選をし、信頼を持って任せ自分は自分の責任を全うする。そういった能力が本当は上に立つものとして必要なのではないか。解っていてやらないのならばそれは慢心でしかない。人が一人で出来る事など、限られているのだから。
(それは……隊にしても言えることだ……)
 諍いを避けるために、不穏分子を見過ごしていれば変わるものも変わらない。むしろ悪化する可能性の方が高い。
 決定打がないから黙っている、ではなかったのだ。指摘する材料を作るために努力しなければならないのだ。そして、その上で平穏を求めるために多少の諍いも辞さぬ覚悟を持つことが、必要なのだ。
 役目を負ったとき、理解していた。しかし覚悟は全然足りていなかった。
(今一度、一歩を踏み出さなくてはならない)
 平和な世の中だから忘れていた。騎士とは有事あらば、国の為、王族の為に命をも賭さねばならない覚悟を持たねばならぬということを。
 二十年ほど前にあった紛争が再び起こらないとも限らないのだから。
 まずは心を奮い立たせることからはじめよう。拳を握り締める。思うだけでは駄目だが、しかし起点がないことには今の自分は動けない。
(動かなければならない)
 頭に浮かべるのは自分の部隊のこと。王女のことではない。
 慈悲の心を捨てろ、と言う訳ではない。でも王女には王女を支える者がいる。そして、彼女を気にした自分の心が消えるわけじゃない。それで十分だ。
 目標は改めて定まった。争わない、でも何も進むこともない世界に慣れてしまっては、この憂鬱が晴れるときは永遠にこないのだから。