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第一章 幸せな日々 * 第一話「それぞれの憂鬱」(4)


 いつも綺麗なシニヨンに纏め上げられている髪は無造作に束ねて。レースで飾られたドレスは動きやすい黒の上下に。最後に防寒用の真っ白な上着を羽織って。
「これで大分目立たないかな」
 通常よりも大分質素な姿を全身鏡で確認しながらルマは一人呟く。完璧とは言えないが、これで少なくとも人混みに紛れてしまえば自分が王女だと気づくものはいまい。
 今までも大丈夫ではあったが、一応念には念を入れなくては。もう一度くるり、と鏡の前で回ってみる。体が軽い。黒のズボンはぴったりと肌に吸い付いているからドレスの裾にように絡まったりしないし(ウォール曰く、おしとやかに歩いていればそんな心配は無用だそうだが)、上着が少々バタバタ浮き上がるが動くのには全く支障はない。
 本当に何の意味があって、いつもあんな動きにくい格好をしなければならないのだろうか。王族としての権威を示すため、と人は言うが結局は必要最低限の動きしか与えないための、宮殿内に留めるための拘束着なのではないか。そう感じずにはいられない。
 余計な御託を考えるのは後でいいか。今は計画通りにここから抜け出すのが先だ。まっすぐ部屋の扉を見据える。真正面から出て行けば、ウォールがよこした守護騎士達が控えている。ならば、残っているのは出窓一つに、バルコニーへと続く大窓のみ。普通はそう考えるだろう。しかしまさか第四の脱出口があるとは誰も思うまい。誰も知ることのない部屋の一点を見つめながら、ルマは楽しげな笑みを漏らした。
 さあ、もう退屈を誤魔化すのは限界だ。気合を入れる代わりに、黒縁のメガネをしっかりと耳にかける。
 ガラス越しに見える世界は、もういつもの日常ではない。


*      *      *


 さて、どうしたものだろうか。
 エルラドは整った顔を珍しく歪めながら考え込んでいた。隣に相棒がいたならば「美人が台無しだぞ」などとからかいつつも、場を和ませてくれるところなのだが、今は訓練の報告をした帰りなのでエルラド一人だけだ。
 ゆえに、ひたすら宿舎への道すがら(といってもまだ宮殿内だが)訓練と報告の事を思い出して、ため息をつき、気を取り直しては、また思い出して、を繰り返している。そしてまた、思い出す。今日の事を隠して、それでよかったのだろうか、と。
 意図的な訓練放棄だ、と確信したのは今日がはじめてのことだ。後数回、様子を見てからでも遅くはあるまい。報告をするまではそう思って迷うことはなかった。だが表情なり口調なりで何を察しられたのだろうか、全ての――否、一部偽りの報告を終えた後、団長はこう告げたのだ。

――偽りなどないだろうな。

 短くも、重々しい、今までの報告の後にはなかった言葉。
 肯定の、すなわち真実を偽る返事をした瞬間、握った汗の感覚はまだ手の中に残っている。そして、おそらくは動揺の表情を見せてしまっただろう瞬間、団長がこぼした意味深な微笑もまた目に焼きついたままだ。
 失敗だった。今は素直に自らの読みの甘さを痛感している。同時にそれでもなお、次の機会に真実を告げるべきか迷ってしまっている事を恥じてもいた。隊の調和を乱したくはないと思っているのは嘘ではない。だが心の奥底では判断を誤った自分を認めたくない。そんな自己中心的な考えが欠片でも存在していることを強く感じてしまったのもまた事実だった。
 次に真実を言えば、今回隠した事を追求されるのは避けられない。偽ったのは自分なのだからその尻拭いも、叱責も、全て自らが背負うのも、至極当然の事だ。そんな事は隊長位に就いていない者でなくとも解る。……理屈だけならば。しかし経験も浅く、対処の方法も確立していない今のエルラドは真面目な性格も相まってか、冷静さを失っていた。
 落ち着け、落ち着くんだ。胸に手を当て、深呼吸をする。気休め程度の効果しか得られないのは解っていたが、確かではない事で延々と頭を抱えるよりはマシだ。次の訓練の内容も考えなくてはならない。無論問題解決は重要だが、訓練そのものが成立しなくなってしまっては意味がない。だからエルラドは自らに言い聞かせるようにうんうんと頷いて、俯き加減だった顔を正面へと向ける。
 目の前に飛び込んで来たのは、絢爛豪華な宮殿の一部とはとても思えない、灰色の石壁に囲まれた人気のない、薄暗い空間。見慣れた通り道では勿論ない。
「……どこだ、ここは……?」
 呟きは空しく、静寂な空間に融けるのみ。


*      *      *


 宮殿の中には有事の際に、敵に悟られる事なく逃げるための抜け道が存在するらしい。王宮に限らず貴族などの上流階級の人間のように、桁外れの広さを誇り、かつ古き大邸宅には少なからずあるに違いない。……というのは飽くまで庶民の間で伝わっている想像の範疇であり、また未知なる領域への憧れでもある。
 その宮殿に住まう、エルフェリア王国第一王女にして唯一の世継ぎの王女であるルマがどういった流れか耳にした「抜け道」の話をふと思い出したのは半年ほど前のこと。父王が話がある、と言い出し始めた(ウォールが言葉を伝えに来た、が正しいが)頃だった。
 今更何を話すことがあるのだろう。求めても、求めても。応えてくれなかったくせに。本当に何を今更。二、三日に一度くらいウォールと攻防を重ね、煩わしさは増していくばかり。私は話などしないと心に決めているのに、放って置いてほしいのに。
 もう逃げ出してしまいたい。
 思う気持ちが遠い記憶を呼び出したのかは解らないが、おぼろげな記憶に導かれるまま、誰にも気づかれず月の宮の外に出れる「道」がないものか。ルマが探すようになったはごく自然の事だった。……まさかそれが自室の床下に仕掛けられているとは思ってもいなかったが、とにかくも逃げ道は得た。
 惜しむらくは完全に外、城下町である王都フィラデルに出るのではなく、宮殿内でもっとも人気のない倉庫区画が出口ということだろうか。しかしどの倉庫にも頑丈な鍵(何でも魔術仕様らしいのだが良く解らない)がかけられており、特に見張りもいないので、普通に回廊を通って正門を抜けようとするよりはずっとずっと脱走もしやすくなる。流石に大陸一の王国だけあって、成功率は六割程度ではあるが、秘密の経路さえ見つからなければ及第点だ。
 そして今日も「逃げるため」にルマは抜け道をひた走る。やがて果ての、一見なんてことのない石の壁に力を入れた。


*      *      *

 お前は真面目過ぎて、ごくたまにだけど周りが全く見えなくなる事があるから気を付けとけよ。
 親友に言われた事を、よもやこんな情けない状況で実感することになろうとはエルラドは思っていなかった。
「……本当にどこなんだろう……ここは」
 落ち着かせるための呟きが、四方八方見渡す限りに広がる灰色の無機質な空間の中をこだまする。窓一つない静寂に満ちている空間を、蝋燭の灯がおぼろに照らしている。
 おそらくは半地下にある倉庫区画。配属された時に貰った城の見取り図を思い出し、エルラドは深くため息を吐いた。考え込み過ぎて、こんな場所に迷い込むなど本当にどうかしている。あまりの情けなさに弱気になりかけたが、いやいやと頭を振った。まずは慣れた通り道に戻るのが先決だ。
 エルラドは改めて辺りを見回す。全く同じような石の壁と、幾多もの鉄の扉があるばかりで、道標たるものが全く見当たらないが、少なくとも今背を向けている方に進めば多少なりとも知っている道に近づくのは確実である。途中道が分かれる可能性もあるが(見取り図には倉庫区画の詳細までは描かれていなかった)、闇雲に進むよりは良い選択だろう。
 回れ右して、歩を進める。しかし目の前で起こった驚くべき出来事にエルラドは足を止めるのを余儀なくされた。
 鉄の扉以外には何の変哲もない石の壁だけ広がっている……はずだった。しかし今、扉と扉の間の壁が、段々とせり出て来ている。そして、
「……よいしょっ」
 押している人物の声か、どこか消え入りそうな声が内側から漏れ聞こえてくる。はっきりとは解らないが、少なくとも大人の男性とは思えなかった。やがて扉のように開き始めた石の壁の間から、重々しい壁とはまるで印象の違う小柄な姿が見えた。
 呆然と立ち尽くすしかないエルラドを他所に石の扉は動き続け、ちょうど中の人物がぎりぎり通り抜けられるだろうか位の幅で停止した。顔はほぼ内側へ向けられていたし、薄暗くて確認は出来ないが、背格好からして十中八九女性だろう。
 なぜこんな所に。それは自分もそうだからなんとも言えないが。それよりもなぜ、こんな所から。困惑するエルラドには構わず、というよりも全く気づいていないらしい件の女性は重い扉を押したせいなのか、胸元に手を添えて肩で息をしている。俯いているからまだ顔は見えない。
「ふう……毎度の事とは言え……楽じゃないなあ……」
 はあはあ、と荒い呼吸の間に聞こえるのは、ちょっと前よりは幾分か澄んで聞こえた。しかし何よりも目を引いたのは肩と連動して揺れる髪だった。蝋燭の僅かな灯りが照らし、何とか空間を把握出来るこの場に在って、滑らかに光の波がうねっている。そんな茶色の、否、赤銅色と言った方が適切かも知れない、見事なそれ。
 それはおぼろげな灯りが蜃気楼のような幻想を演出したせいだったのか、はたまた危機的状況からの感覚の落差がなせる業だったのか。仕事の事ばかりで他の事になかなか目が向かないエルラドが思わず魅せられてしまう要素が確かに目の前にあった。
 呆けていたエルラドが我に返ったのは、よしっという掛け声と共に上げられた目の前の人物と目があった瞬間だった。目を丸くした件の女性、否、少女はやがて整った眉根を歪ませ、静かに言い放った。
「……誰?」