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第一章 幸せな日々 * プロローグ「決別の夜」


「お亡くなりにございます」
 静かに医師が告げると、堰を切ったかのように、若い女性の泣き声が部屋中に響き渡る。呼吸が止まってしまうのではないかと思えるほどの激しい嗚咽を耳に、ルマは寝台に横たわる母を無表情で見つめるのみだった。
「王女様……!」
 不憫に思ったのか、ついさっきまで割れんばかりに泣いていた若い女性、母である王妃付きの侍女がルマの肩を優しく抱いた。温もりが徐々に染み入るように、諸々の感情が入り組んで、結果空虚になりかけていたルマの心に、段々と感情が蘇ってくる。
 侍女の啜り泣きを聞きながら、ルマは思う。自分の姿を皆どう思っているのだろう。母の死を認めたくなくて、感情を押し留めているのだろう、とか感じているのだろうか。
 少なくとも、全く悲しんでない、と感じてはいないはずだ。何故なら、息も絶え絶えな母に向かってルマは必死に叫んでいたのだから。死なないで、置いていかないでと涙混じりに。周りの声が一切聞こえなくなるくらいに、一心に。胸が張り裂けんばかりの感情が、何事もなかったかのように消え去った「あの瞬間」までずっと。
 悲しくなくなった訳ではない。一見すれば、ちょっと疲れて眠っているようにすら見える母の姿を見れば見るほど、目頭は熱くなってくる。輪郭を縁取る、娘と同じ金茶の髪も病に倒れたなど信じられない程、生前の光沢を保っているというのに。しかし、これまた娘と同じ、紫の瞳はもう何も映す事はない。永遠に。
 しかし、同時にルマは安堵感を覚えてもいた。ただ、母を亡くした悲しみにくれる事が出来たら、どんなにか楽なことだろう。でも今のルマには出来なかった。
「……セイレン……?」
 呟きにもやがかかったようなルマの心が冴え渡った。直後現れたのは怒り、という感情だった。
 王妃である母を名前で呼ぶ人間は一人しかいない。振り向くまでもない。否、振り向きたくもない。
 怒りに我を忘れそうになるのを必死でこらえるルマを他所に、「一番顔を見たくない人」は容易くルマの視界の中へと入り込んでくる。それでも顔は見るまい、とルマは視線を床へと移した。
「何故、もう少し待ってはくれなかった……」
 悲しみの言葉を紡ぎながらも、どこか落ち着き払った響きに、ルマは肩を震わせる。何を今更。爆発しそうになる心を必至で抑える。
 でもきっと怒りで顔は赤くなっていることだろう。熱さを感じるくらいだから、勘違いではないはずだ。押し隠すように、床を見続けていたが、
「ルマ」
 呼ぶ声が、ほんの少し視線を逸らせた。うっかり相手に向きかけた顔を、戻す。
 いかにも呆れた、と言わんばかりの深い溜息がルマの耳に届く。
「ちゃんと顔を見せなさい」
 応えないルマに、苛立つでもない至極冷静な響き。反応は既に予想済み。無視を決め込もうとした所で、相手は何も堪えはしない。むしろ余裕たっぷりに構えている。
 ならば、だんまりを続けるのは屈するのと同じこと。言葉など交わしたくもないけれど。歯噛みしながら、ルマは重い口を開く。
「嫌」
 相手に対する気持ちを極限にまで絞った言葉。深い溜息が再び耳に届く。
「……解った。そのままでいい」
 間を置いて、言葉を続ける相手。
「セイレンは……最後に何か言っていたか?」
 刹那、ルマの怒りの感情が急激に膨らんだ。
 意固地なまでに外していた視線はあっさりと相手を捕らえる。幼き顔に似つかわしくない程の憎悪をあらわにしたルマを前に、相手は何ら動じることもなく、見下ろすのみだった。
 金と見間違う程に透き通った琥珀の瞳、端正な顔立ちを縁取るのはまっすぐに伸びる銀の髪。立っているだけで、ひざまずかずにはいられない、と言われる程の奇跡の容貌。
 しかし、怒りに心を満たせているルマは畏れを感じてはいなかった。
「聞く資格があるとでも? 国王陛下」
 父である国王に他人行儀の言葉。しかし、当の王は沈黙を返すのみ。本当に自分が間違っているとは思っていないのだ。きっと娘の行動や言動も全て予想済み。それならば、
(もう、遠慮は、いらない)
 怒りのまま全てをぶちまけてしまえば、いい。
「ただ忙しいから。それだけでお母様に会おうともしなかった貴方が、今更何を聞くの?」
 父に向かってこれだけの言葉を向けたのは、否、会話らしい会話を交わしたのすら今が初めてかも知れない。
 王族として同席した式典以外で記憶にある父の姿は、背中ばかりだ。忙しいから、と言うのは父の従者の役目。直接父から告げられたのは一度たりともない。不満を言えば、お父様は忙しいの、と母が諌める。顔全体に悲しみを満たせながら。
「いいえ、お母様の言葉を実際聞くことはもうかなわないわ。言うのは私なんだから!」
「そうだ、だからお前に頼んでいる。余り困らせるものではないよ」
 淡々とした響きは怒りを通り越し、虚脱感をルマに与えた。そして同時に悟った。何もかも駄目なのだと。
 期待など、してはならないと。
「……ならば、ずっと……一生困っていればいいのよ」
 その時、ほんの少し王は眉根を寄せたが、ルマが疑念を抱く事はない。父が何を思おうが、もう知った事ではない。そう、心に言い聞かせながら。
 伸ばされようとしている王の手をルマはあらん限りの力を込めて払いのけた。
「……ルマ」
 流石にこの反応は想定外であったのか。目を瞠っている父の姿にルマは動揺しそうになり、慌てて否定する。もう決めたのだ。期待なんてしない、と。
「私は言わない。絶対教えてなんてあげない。恨むなら、お母様の言葉に耳を傾けて来なかったご自分の生き方を恨めばいいんだわ」
 言い切って、ルマは勢い良く床を蹴った。
「王女様!」
 部屋を飛び出し、走り出そうとするルマの耳に届いたのは父の声ではなかった。多少動揺したかのように見えたのはやはり錯覚か。それが答えか。
 何もかもを断ち切るようにルマは力いっぱい駆けていった。
 途中、幾人かの人間をすれ違っていたが、ルマの視界には入らなかった。
 無我夢中で自室に駆け込み、後ろ手で扉を閉めた途端、堰を切ったかのようにとめどなく涙が溢れ出す。
 期待しない。決意とは裏腹に体は本音を示していた。
 期待しないなんて大嘘だ。寂しい思いをするのは嫌だ。……でも信じて、裏切られて、今以上の絶望感を味わうのはもっと嫌だ。
 だからもう止めるんだ。やがて涙は嗚咽交じりの激しいものになり、苦しさを覚えながらも、ルマは拭おうとはしなかった。
 今は素直に泣こう。いっぱい、いっぱい涙を流し切ってしまおう。枯れ果てて、これ以上泣けることのないように。
 ルマは激しく、割れんばかりの声で泣き叫んだ。もう愛したいなんて思わない。愛されたいとも思わない。強く、強く言い聞かせた。
 優しかった母の最期の言葉を思い出しながら。