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 やがて、信号待ちをしている美咲の姿を見つけた。信号が青に変わり、まさに渡ろうと足を踏み出そうとしている美咲に向かってあらん限りの声を振り絞って勇人は叫んだ。
「美咲―――――っ!」
 余りの大声に、目を丸くしている美咲だけではなく、周りの通行人も勇人のことをみていた。しかし全く気にせず、勇人は美咲の下へと駆け寄る。
「はあ君、どうしたの? 仕事は?」
「……抜け出して……来た」
 ぜえはあ、と肩で息をしている勇人の背を、もう大丈夫? と擦る美咲。ああ、本当にお前は優しいお嫁さんだよなあ。勇人は情けなさと美咲の優しさに泣きそうになるのをこらえ、深呼吸を何回かしてから言った。
「弁当、ありがとう」
 もう一つ、深く深呼吸してから更に言葉を重ねる。
「あと……昨日はヒドイ事いって悪かったよ。俺、お前が大変なこと、何も解ってやろうとしてなかった。これからは皿洗いでも、何でもおしつけていいから。いつも家の事してくれてるのにありがとうも言わなくて……本当にごめんな」
 昨日はいえなかった言葉を勇人がするすると口にすると、美咲は恥ずかしそうに俯いて言う。
「ううん……私もヒステリックになりすぎたから……もう気にしないで」
「いや、それじゃだめだろ、元も子もないだろ」
「……えぇ?」
「お前の負担が減らないなら、同じこと繰り返すだけだろ。皿洗いか? それとも……」
「ちょちょちょ、ちょっと待って!」
 埋め合わせをしようとする余り暴走しかけた勇人を美咲が止める。
「あのさ、気持ちは嬉しいけど、はあ君勘違いしてるよ」
「勘違い?」
 うん、と頷き美咲が言葉を続ける。
「はあ君は会社、私は家。それぞれに役割があって、それはそれぞれがこなさなければならないんだよ。それはちゃんと解ってるの。でも切羽詰って昨日みたいなことになっちゃ事もあるけど……でもちゃんと心の中では思っているんだよ? それは本当、信じて」
 でも、と言い掛けた勇人の口を美咲の人差し指が止めた。
 こんな風に触れられたのはいつ振りだろう。まるで恋人時代に戻ったかのように、勇人は顔が熱くなっているのを確かに感じていた。
「さっき、ありがとうって言ってくれたから。私が頑張ってるって認めてくれたから。それでいいの」
 心からの美咲の笑顔を見るのも久しぶりだった。そうだ、この笑顔が大好きだったから。疲れて帰っても、この笑顔を見れば全部吹き飛んでしまうと思ったから。だから、結婚しようと思ったのに。自らその笑顔をなくさせていたなんて、馬鹿にも程がある。勇人は所在なさげに、頭をかいた。
 離れるのが惜しくて、このまま一緒に帰ろうかとすら勇人は思ったが、見透かされていたのか、それよりも早く会社に戻りなよ、と美咲が促す。本当にいいおよめさんだ。名残惜しかったが、「それぞれの役割」を全うするため、会社へと戻る勇人。
 かっこつけたいがために、今までどれだけ大事なものを落として来たのだろう。悔やまなければならないことは沢山ある。けれども落ち込んで、立ち止まってはいられない。落としてしまったものは、拾い集めればいいのだ。簡単なことではないけれど、自分にはそうする義務があると思うから。
 勇人は、歩いていたのを駆け足に変えた。


*      *      *


 問題のハンカチであるが、結論から言えば義父のだった。
 父の日のプレゼントに悩んでいた美咲はフレグランスコーナーで見つけた男性用コロン(整髪料ではなかった)を贈ったのだが、苦手だったという事をすっかり忘れていたらしい。包装紙に包まれていたから、渡す時は気付かなかったのだろう。しかし娘に甘い父親は、体にはつけないものの、ハンカチにかけて持ち歩いていたらしい。そして昨日。亜衣がレストランでアイスを口につけていたのをハンカチで拭いてくれたらしい。それで美咲は父に悪いと思い、せめてハンカチは洗わせてくれ、と持ち帰ってきたらしい。
 以上が、「ハンカチ事件」の真相である。フタを開けてみれば浮気などとんでもない。秘められていたのは娘思いの父による実に愛情たっぷりの話だった。
 そして、もう一つ。
「ママのかばん、おかたづけしなくてごめんなさいっ!」
 会社から戻るなり、亜衣が頭を下げて謝ってきた。美咲とはとりあえず和解したようだ。しかし、これでやたらとバッグが内側に押し込まれていた理由が判明した。ママが大事にしていたバッグを落とした亜衣は、いつも以上に怒られることを恐れ、隠したのだ。
「あいちゃん、それはパパには言わなくてもいいんだよ」
「ううん、あいちゃんがちゃんとおかたづけしなかったから、パパとママケンカしちゃったんでしょ? だからパパにもごめんなさいしなきゃだめなの」
 どうやら娘にはそう映っていたようだ。これは悪いことをした。感情まかせになっていたとは言え、願わくば二度と子供の前であんな醜態はさらしたくはないものだ。本当に心から思い、亜衣をだっこしてあげた。
「じゃあ、これからはちゃんとお片付けするんだよ」
「うん、あいちゃんパパのおよめさんになれるようにがんばっておかたづけするよ!」
 だから娘よ。どこでそんな落とし文句を覚えてくるんだ。せっかく決めるところは決めようと思っていたのに、決心が揺らぎそうだ。
 良き夫と、甘い父の板ばさみに苦しむ勇人を他所にいつも通りの、否、ちょっと変わろうとしている日常は始まる。
「亜衣ちゃん! またおもちゃ散らかしっぱなしにして! ちゃんとおかたづけしなさい!」
「あとでちゃんとやるもん!」
 これは心していかないとな。いつも通り呆れつつも、勇人は心躍るのを確かに感じていた。


*      *      *


 リビングの開け放たれたドアの向こう。
 廊下には今日もピンクのゴムまりが落ちている。


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