飛べない魔術師

断章「始まりの儀式」

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――何で、私がこんな目に。

 遠くで地を脅かしている雷鳴が、くぐもって耳に届く。連動するかの如く体に容赦なく降りかかる大粒の雨。只でさえ苛立って仕様が無い彼女にとっては、感情に拍車をかける要素にしかなりえなかった。無我夢中に駆けていた。明確な目的地は存在しない。ただ安全な場所であればよかった。食料も補給できればなお良し。
 一歩一歩地を踏みしめるごとにぬかるんだ地の泥が跳ねる。鬱陶しいことこの上ない。愚痴の一つも零したかった。しかし、聞かせる相手はいなかった。だからこそ彼女は鬱陶しい気持ちを堪えて走っているのだ。人はいた。しかし、聞ける者は辺りには存在しなかった。
 辺りには、泥水をいっぱい吸い込んだ衣服に身を包み、微動だにしない人間が無数に転がっている。命の息吹がないのは明白だった。解らなくたって確認する気もおきない。それよりも自分の身の安全を確保する方が大事だった。寧ろ、それしか考えてなかった。生に対する貪欲な姿勢が彼女を生存へと導いていた。折り重なっていて倒れている男女に、彼女が立てた泥飛沫が降りかかった。互いに相手を護ろうとして、共倒れになった恋人達を嘲り笑うかのように。

*      *      *

 走れども、走れども周りの様相は変わらない。何故、こんな事になったのだろう? 自分は普通にいつも通りの生活をしていただけだった。稲光が窓から見えて、辺りに轟音が響き渡り、目を覚ましたら……こうだった。
 辺りに倒れている『見慣れただけ』の人間達。思いついたのはただ惨状と化した、そこから逃げ出す事だった。別に何の悲しみも湧かなかった。たまたま生れ落ちた地であり、人間はたまたま住んでいたに過ぎなかったのだから。つまらないことこの上なかった人生、さらには『お荷物』まで背負わされる事になって。こんな世界、誰でもいいから払拭してくれないものか。無かった事にしてくれないものか。だからと言って、こんな事は願っていない。
 勝手で自己中心極まりない感情を抱えながら、彼女は腹を摩っていた。そう、彼女は身ごもっていた。それも、愛してもいない男に無理矢理手篭めにされて。堕胎をしないのは、この国がそれを罪として禁じているからだ。罪人にはなりたくないから。彼女の理由はただそれだけだった。子に対する愛など欠片も無かった。鬱陶しい冷たい雨の中を走っているのもそういう理由からなのかも知れなかった。あわよくば、無理がたたって流産でもしないかと。でもそれはそれで、つらそうだけど。
 女は本当に自分の事しか考えてなかった。ある意味図太い性格が、体を護ってるかのように、彼女は何の不調も覚えてはいなかった。

*      *      *

 雷鳴と轟音の間隔が大分近くなって来たとき、彼女は発見した。おびただしい死体の中、佇む人影を。これ幸いと、足を申し訳程度だが早くする。相手もこちらがわに気付き、振り向いた。瞬間女の足が止まる。整った中性的な顔を包むのは、波打つ白い髪。銀のようにも見える。身に纏っているのは純白だっただろう衣装。今はどす黒い色で染められている。おそらくは血の染み。それが雨によってじわじわと広がっているのが解った。

――黒幕はこの魔物だ。

 女は何故か素直にそう思った。この人物に人外のものであるという身体的特徴は見当たらない。でも何故か彼女にはわかった。これは人外の存在であると。根拠はない。ただ、本当に素直にそう感じただけだ。目が合った。凍りつくような視線に射られ、身動きが取れない。
「まだ、生き残りがいたとはな」
 声の低さと、口調は男性のものだった。だが、そんな事は今更どうだっていい。
「あなたが殺したの?」
「そうだが?」
 男の口調は淡々としていた。さも当たり前という風に。
「それにしても、私としたことがヒト一人の気配を見落とすとはな……。まあ、よい。こうして見つかったならば……。さて、女。お前はどのような殺され方が好みだ?」
「……冗談じゃないわ、誰が殺されるものですか!」
 逃げ出そうとしたが、足が地面にめり込んで離れなかった。じたばたしながら足掻く女を、男は微笑してみている。
「く……なる程……これは面白いな」
 意味も解らず、苛立ち半分、恐怖半分で女は男をにらみつけた。
「……母は、強し、というところかな? ヒトで言うところの」
「母? 冗談じゃないわ。誰がそんなものをやるもんですか汚らわしい!」
 凄惨な状況にあってもなお、女は強気の姿勢だ。男は一瞬だけ目を瞠り……そして、背筋がおもわずぞくりとなる程の妖しい笑みを、返した。
「全く愛情がない……か、それは好都合だ。そんな母親の元にいるよりは……もっと有意義な生を過ごせるだろうよ」
 女に男の呟きの意味は理解できないものだった。否、理解しようとする時間すら女には与えられなかった。言いようもない激痛が走ると同時に、血まみれになった何かが浮かんでいるのが見える。それがついさっきまで自分の中にいたものとわかったのも束の間、彼女の意識は途切れ、戻ることは無かった。

*      *      *

 雨によって血が落ちて、肢体があらわになった胎児は、ほのかな光を放ち、宙に浮かんでいた。産声を上げる事はない。臨月も迎えていなかった胎児なのだから当然の事ではあった。でも胎児は生きていた。
「さて、お前に名をつけねばならぬな」
 自分の名をそのまま与えるのは芸が無さ過ぎる。それ以前に、自分の名は自分以外に与えることも。口に出すこともできないのだが。
 足下の変わり果てた女の死体をじっと眺める。ぶつぶつと何かを呟いたのち、男は話しかけた。返事が来るはずのない相手に。
「女。お前の名を聞き忘れていた……なんと言う?」
 何かを言いたげにうっすらと開いている口から、確かに呟きが漏れた。
「……リ―ルタート」
「解った。黄泉へ還れ」
 胎児へと向き直る。無理矢理誕生を早められた胎児は、幸か不幸か何も解らずほのかな光を放つのみ。
「リールタート……だと。愛称はリィト……か?」
 名付けに女の名を利用しようと考えたのは、男のないようで存在した良心だったのか。  今となっては誰もその事実を知らない。生を受けた幼子も、また。


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